やる気が出ない日は、何もしない方が上手くいくことが多い
皆さま、よき一日をお過ごしでしょうか?
よき一日の隙間時間に、ちょっとした小話を。
本日は、午前中にバタバタと用事があったおかげで日中にやる気が全くでない状態に。
なんだか、ほかのことをやりたくなくなってしまう瞬間。結構あるかと思います。
無い方は、常に新しいことが溢れてきて楽しいんじゃないかなと想像します。
まあ、そういう方はこの記事を読んでいないと勝手に思い込んでおくとして。
「やる気が出ない」というのは、あらゆる記事(このブログも含めてですが)が出来るほど人類にとっては大きな障壁なのでしょう。
ある種の「悪いこと」として語られることが多いですが、本当にそうなのでしょうか?
例えば、本当にやらなければいけない事、締め切りやテストを「やる気が出ない」という理由でふけるのは
関わっている方に迷惑が掛かるという点において、悪いことと言えるかもしれません。
しかしながら、確かにやることはあるけれども、今すぐやる必要も特にない時に限っては
「やる気が出ない」という理由でやらないことも、選択肢になり得ると思うのです。
そもそも、やる気というのはモチベーションという形で語られることが多いですが
モチベーションというのは長期にわたって維持できるほどの能力ではありません。
一時の爆発力というのは凄いですが、反動も凄いのです。(科学的な根拠はありませんが、やる気波形と考えれば山あり谷ありなのではないかなと)
ここまで読んで頂いて、概ね何が言いたいかは伝わったかと思いますが
つまり、やるべきことをいつも行っている上で、たまのサボりぐらいは良いんじゃないの?ということです。
サボりという表現は、悪いイメージがあるので
たまの「開放感を味わう」のは、良いだろう。という考え方。
そもそも、やる気を出さないと出来ないことは習慣化されていないということなので
そういうものはゆっくり慣らした方が上手くいくことが多いです。
超長期目標、長期目標、中期目標、短期目標、超短期目標。
腕をバキバキに鍛えたい!となったときに、いきなり10kgのダンベルから始めるのはほとんどの方が続かないでしょう。
80kgのバーベルを上げられるようになるために、まずは2Lペットボトルを1日1回上げ下げすることから始める。
もっと小さく500mlのペットボトルを1日1回上げ下げすることから始める。(もちろん、ペットボトルには水を入れておかないとダメですけれども)
こうして、体に慣らしていくことが大事だと思います。
やる気が出ない。
そういう時は、そもそも疲れているとか、ストレスが溜まっているとかの原因があることが多いので、気分をリフレッシュして新たな気持ちで望めるように。
早めに寝て、早めに起きる日を作るのも良いと思います。
出来ない自分を責めるよりも、労わってあげてください。
但し、ちゃんとやるべきことをやっている人は、ですが。
やることもやらないのに、やる気がーって宣っている方。
そもそも、それって本当にやりたいことですか?
辞めてしまって、新しいことに手を出してみてはいかがでしょう。
やりたいことを、やりたいときに、やりたいだけやるのが
人生をより良く生きることにもつながると思います。
では
皆さまにとっても、明日も良い日でありますように。
今気になっているトレンド、人工知能とか、VRとかの話。
皆さま、よき一日をお過ごしでしょうか?
よき一日の隙間時間に、ちょっとした小話を。
最近は、VR(仮想現実)やAI(人工知能)、IoT(モノのインターネット)が世間を賑わすトレンドワードでしょうか?
スナップチャットに搭載されている顔認識なんかは、もはやライトテク(誰でも利用できるようになったという意味で)と言っても差し支えないような気がします。
VRと言えば、PS4にVR専用のシステムを取り込んだPlayStation VRの発売発表が直近での話題でしょう。
個人的にVRの開発は既に飽和市場になっている気がするので、参入障壁は低いですが将来的な利益見込みはもう低い気がします。(もちろん、まだまだ初期段階なので現時点では右肩売り上げでしょうけれども)
それよりは、これからは「人工知能市場」に注目でしょう。
まだまだ参入障壁が高い市場ながら、今後上がることが期待されています。
特に、人工知能研究者を育成するプロジェクトが東大で動いているので、成長見込みに対する勢いは尋常ならざるものを感じます。
私個人も、人工知能には非常に注目している一人ですので今後10年は熱い分野になりそうだなと(しかし、人工知能とは何かを端的に理解できる方は中々少ないため、技術者の苦悩は絶えないと思います)
人工知能というと
例えば映画で言えば、「ターミネーター」や「A.I.」や「アイロボット」なんかが有名どころでしょうか。
いずれも、多少様相は異なりますが、「人工知能によって人類が脅かされる話」として描かれている作品だと思います。
実際問題として、人間に敵対する人工知能が出現することは間違いない事実でしょう。
一つ勘違いしないで頂きたいので付け加えますが、恐らく今後100年経っても人工知能が人間の思考能力を凌駕することはないでしょう。
現在のコンピューターがどのように動いているのかを理解できれば、思考能力という点においては疑問の声が上がります。
もちろん、これは現在の話であって、今後どうかは別の話です。(ノイマン型から量子型になったら時代は世紀単位で進むでしょうし、そうなれば人間の処理能力は機械に凄まじく劣るようになることでしょう)
世界中の天才的な頭脳を持った方々が、今まさに世界を動かそうと技術開発に励まれています。
感謝の念に堪えません。そういう方々のおかげで、今の生活や仕事があるわけですから。
巨人の肩に乗る。という表現を、技術開発もしていない私が使用するのは大変おこがましいですけれども
偉大なる先人の技術を利用して、何かを作り上げるのは非常に楽しい行為です。
私の場合は、開発業務が主な仕事なわけですが、そういう意味でもプログラミング言語やコンピュータ、通信技術、あらゆる技術に囲まれて仕事を行っています。
その中に、「人工知能」という新しいスパイスを入れるとどんな料理が出来上がるのでしょうか。
非常にワクワクしっぱなしです。
人工知能技術が成立するとともに、IoTもより高度化していくでしょう。
というよりも、IoTと人工知能はより深く結びつけておいた方が良い効果を生むでしょう。
皆さまにとって、今熱い技術は何でしょうか?
技術大国日本。
今後はより高度な技術を、より大勢の方が、より簡単に扱えるように、日本の方一人一人の意識が技術を推進していくような流れになるといいなーと。
理系離れが叫ばれる昨今においては、妄想に過ぎないですけれども。
では
皆さまにとっても、明日も良い日でありますように。
物事を考えるということ
皆さま、よき一日をお過ごしでしょうか?
よき一日の隙間時間に、ちょっとした小話を。
皆さまは、普段の生活の中でどのぐらい考える時間があるでしょうか?
諸説ありますが、人は一日の間に約10万回もの思考判断を行っていると言われています。
筋肉を動かす、血液を作り出す、不要物を体外へ排出する、異常がないかを検査する、などなど。
私たちの脳は、このブログを読んでいる今この瞬間でもフル稼働しているのです。(人は脳の約10%しか利用していないという話もありますが、そんなことは実際にはありません。
実に、ありがたい話ですが
そもそも、それは自身が自発的に脳を活動させているわけではないのです。
本を読んでいる時を想像してください。
例えば、コナンドイルの名作「シャーロック・ホームズシリーズ」を読んでいるとしましょう。
ホームズとモリアーティー教授とライヘンバッハの滝の場面が出てきたときに、どのような風景を想像するでしょうか?
どのような風景でも構いませんが、牧草地帯に突如として滝が現れるような情景を思い浮かべる方は(いないとは言いませんが、ほとんど)いないのではないでしょうか?
それよりは
断崖絶壁の滝の横に突き出た岩場があって、そこに二人の登場人物が対峙している。
ような、情景を思い浮かべる方が多いかと思います。
余談ですが
もし、シャーロックホームズシリーズを読んだことがない方がいましたら
是非読んで頂きたいですね。ワクワクする世界を是非体験して頂きたいものです。
興味のある方は、以下のサイトにまとまっていたので参照してみてください。
さて、情景を思い浮かべた方の多くは
既知の事実を元にその風景を構成されたと思います。
それこそが、本来の「思考」と呼ばれる現象です。
知っている事実を元に、知らない世界を想像する。
本を読むことで、自然と思考法が手に入る。と言われても、想像できない方が多いのでしょうか?
少し前のニュースで、北海道の子供置き去り事件がありましたが
言葉は悪いですが、正しい思考を全く身に付けられていない親御さんであると言わざるを得ません。
山の中に、子供を置き去りにしたらどういう事態が引き起こされるのか。
そもそも、自分の目が届く範囲に子供がいない時点で親としてはナンセンスだとも思います。(私自身がまだ親になっていないので、心情を正しく理解できない点においては、行き過ぎた表現かもしれません。
既知の事実を組み立てて、知らない世界を想像できていません。
だからこそ、人がどう動くのかを想定できない。つまり、自分がやることしか理解できない人間になってしまうのです。
今の日本の方が弱くなってしまった部分だと思います。
人を思いやるというのは、つまり立ち返って自分がされたらどう思うかを理解できたとも言えると思います。
寸分先のことも想像できないのは、生きていく上で必要な器官を備えていないのと同じぐらい危機的な状況だと思います。
(最近の医療では、ある程度の器官は代替することが出来ますし、器官が無いからと言って生きていけないわけではありません。これは、例え話であって伝えたいことはそうではないことだけ一言付け加えておきます。
物事を考える。ということは、自身の未来をより良くしていくということでもあります。
人の言葉を聞いて、大体こういうことかなと想定しながら話を聞くのと
ただただ受け入れるだけで、嘘かどうかも分からない話を聞くのと
どちらが自身にとって有益につながり易いかは、言うに及ばないと思います。
正しく思考する術を身に付けましょう。
その為に、最も簡単で確実な方法は本を読むことです。
なんでも構いません。
携帯小説(最近であればWeb小説)でももちろん良いでしょう。
ショートショート(いわゆるSS)のような作品もいい作品が多くあると思います。
大事なのは、本を読むことで得られる知識です。
言い回し、多様な表現は今までとは比べ物にならないほど、あなた自身を成長させてくれることでしょう。
最後に、ネットで読めるお薦めの小説/サイトを数点紹介して終わりたいと思います。
・青空文庫
図書カード:マリー・ロジェエの怪事件 (エドガーアランポー)
では
皆さまにとっても、明日も良い日でありますように。
適切なタイミングの考え方
皆さま、よき一日をお過ごしでしょうか?
よき一日の隙間時間に、ちょっとした小話を。
本日は、とある新興企業の社長さんとお話をさせて頂きました。
非常に有益な時間でしたが、その内容の全ては記載できないので抜粋して得た心構えみたいなものを少し。
物事には、それを行うのに適切なタイミングというのがあります。
では、「適切なタイミング」とはいつなのでしょうか?
難しい質問です。
ただ、答えが一つに決まらないこの質問に的確に答えられる人がいます。
それは、あなた自身です。
まるで銭形のとっつぁん(元ネタが分からない方は宮崎駿監督初作品の名言を調べてみると分かるかもしれません)のようなセリフですが、それ以外にありません。
全ての生物にとって平等なものが一つだけあります。
それは「一日の長さ」です。
24時間、365日。
そんな中で、人ひとりが出来ることなんてたかが知れています。
では、何をするべきなのでしょうか?
それこそが「タイミング」の答えになるのではないでしょうか。
あなたがあなたの意志で行動を起こした瞬間がタイミングだとも言えます。
「タイミングが外れる」みたいな表現もありますが、そういうのは今後の為の準備のタイミングだっただけだと思うのです。
ポジティブに受け取れって話でもないですが(極端なポジティブも危ないらしい。本当に人間は繊細に出来ているとつくづく思い知らされる)
結局のところ、ゴッホだって売れたわけですから、人生のタイミングなんてのは訪れたときにようやく分かるものなのです。
売れてないからタイミングじゃなかった。
売れたからタイミングだった。
結果論。タイミングとは、結局結果論です。
なら、「適切なタイミング」というのも、ある意味結果論なのではないでしょうか?
では、今やるべきと思ったらやった方が「適切なタイミング」になる可能性は高くなるとは考えられないでしょうか?
では、今やるべきと思うのは誰なのでしょうか?
親?兄弟姉妹?親戚?先生?友達?恩人?ご近所さん?
いやいや、間違いなく
あなた本人に他ならないでしょう。
思い立ったが吉日。
やらないより、やった方が人生良くなります。(もちろん、犯罪はやったらダメです)
じゃあ何をするんでしょう?
例えば
最近太ってきたな~、運動しないと。
腹筋を1日1回やろう!と思ったら、思った瞬間寝っ転がって1回やれば良いのです。
明日も1回。明後日も1回。
まるで意味がないように見えますが、そもそも昨日まで1回もやってなかった人からすればものすごく意味があります。
例えば
最近流行りのアプリでゲーム作りたいな~。
ゲームを作るためには何をすればいいのでしょう、そもそもどうやってアプリは作ればいいんでしょう、プログラミングが必要なのぐらいは何となく分かりますがプログラミングをそもそもやったことない場合はどうしたら?
一個一個を解決したらよいかと思います。
`ゲーム制作`で検索すれば、膨大な量の情報が得られるでしょう。
`アプリ制作`で検索すれば、これもまた膨大な情報が得られるでしょう。
`プログラミング 学ぶ`で検索すれば、ってもう説明はいらないですね。
あとは、調べたことを実践していくだけです。(実践していく段階が最も難しいのも考慮して、自分が実践するためにはどうしたらいいのかを考える必要もあります)
今回得られた心構えは、私にとっても非常に為になる考え方でした。
私にとって、このような数奇な縁が得られるようになったきっかけがありますが、そのお話はまた今度ということで。
では
皆さまにとっても、明日も良い日でありますように。
友人との懇談会
皆さま、よき一日をお過ごしでしょうか?
よき一日の隙間時間に、ちょっとした小話を。
本日は、友人との懇談会を開いていました。(非常に残念?ながら同性なので、浮ついた話はありません)
特別なにというわけではないですが、ちょくちょく懇談会を開いては
例えば、なんで人は考えるのか?とか、教養とは何か?みたいな話をつらつらと話しているような会なのです。
まっ、とっても真面目に無駄なことを話し合っているわけですが
そんな中からふとしたアイディアというのは生まれたりするもので。
その友人ととあることを始めようと計画立案、進行中です。
なにをやるかーみたいなことは、始まったら告知するとして。人生に、無駄な時間というのはないんだなとシミジミ感じました。
人と話をすると頭が整理されて、あれよあれよと物事が進んだりもします。
気兼ねなく話せる友人を作るのは、中々に難しいものではありますが、そういう友人とは喧嘩を覚悟で本音の語り合いをすると良いと思います。
なにも喧嘩しろという話ではないです。(最近では喧嘩をするほど仲が良いという話は中々聞かなくなったなと、少し寂しくもありますが)
そういう覚悟ですね。何事にもそうですが、少しやり過ぎるぐらいのめり込むことが必要な時もあるとも思います。
とは言え、第三者の厳正なる目で真実を見定める。じゃないですが
なるべくであれば、意見交換というのは三人ぐらいでやるのが一番良い結果を生むようにも思います。三人寄れば文殊の知恵とも言いますからね。
人と喋る。人と語る。人と意見を出し合う。
やっぱり、人ってのは一人じゃ上手いこといかないことが多いものです。
本日は友人に感謝しながら、明日はまた別の方とお会いする予定なのでその準備を急ピッチで進めています。
では
皆さまにとっても、明日も良い日でありますように。
母から貰った生きる道しるべ
今年も一つ歳を重ねる日になりました。(ブログを書いてたらすっかり過ぎちゃったけど)
毎年毎年、大きなイベントが起こりすぎて非常に楽しい人生だなとしみじみ。
ある人にとっては、恨まれてるかもしれません。
ある人にとっては、羨ましがられてるかもしれません。
ある人にとっては、どうでもいいかもしれません。
まるで2-6-2の法則を地で行くような人生です。
ただ、私にとっては楽しい人生である。と今のところは言えます。
ここからは少し長いですが、今を残して置こうかなと思います。
今、この瞬間を忘れないためにも。
現在、私の母は末期の乳がんで自宅療養をしています。
フリーアナウンサーの小林麻央さんや、ちびまる子ちゃんのお姉ちゃんの声を担当されていた水谷優子さん、元プロレスラーの北斗晶さんなどが皆さんの記憶に新しいかと思います。
母はこれで、4度目のガンです。
1度目は、私が小学校入学の時。
2度目は、私が小学校低学年の時。
3度目は、私が大学受験の時。
そして、今回。
私がちょうど大学院に入学したのと同時でした。
母は、時に私のために病院に行かず、物凄く耐え忍んでくれました。
その結果と思えば、そうかもしれませんし、たまたまと言われればそうかも知れません。
何が引き金となるかというのは、本人でも分からないとのことです。
だから、何か、誰かの責任というよりは、その運命を全うできるのが私の母だっただけの話であろうと。
まるで逃げのように聞こえるかもしれませんし、納得できない方もいるかもしれません。
なぜならば、私自身が、何より母本人が、全く納得出来ていないのですから当然です。
「仕方ない」なんて言葉で済ませるような人間にはなりたくないと。
そんな言葉を発する奴らをどうして許せようかと。
健康のくせして、何を知ったような口を聞いているのかと。
無関心な人間を、どんまいの一言で済ますような人間を、どうして思いやらなければならないのかと。
けれども、どれもが「仕方ない」ことに本当は気が付いているのです。
誰にも、どうにも出来ないことを本当は気が付いているのです。
他人にとっては対岸の火事であり、まるで天災のことのようにしか感じられないことに本当は気が付いているのです。
だからこそ悔しいし、だからこそ納得いかないし。
だから、私は母から貰った言葉を今こそ深く噛み締めています。
「友人を大切にしなさい。そして、警察の世話にだけはなるな」
この言葉には重要なことが3つ含まれています。
1つ目は、友人を大切にする。つまり、自分に関わった人を大事にしなさいということ。
倫理(敢えて特定の宗教を絡めませんが)にある「隣人愛」が重要であるということ。
2つ目は、警察の世話にならない。つまり、犯罪行為で他人に迷惑を掛けてはいけないということ。
人工法と自然法、どちらも犯すことは人としてあってはならないということ。
3つ目は、自由に生きなさいということ。
人を大切にするということは、これは人に迷惑を掛けるということでもあるのです。
肉体的、精神的のどちらかで「共存」するということがどうしても発生してしまう中で
犯罪行為でないならば、人に迷惑を掛けることを理解し、そして人から受ける行為を許しなさいということです。
ぶっちゃけて言えば、そんなに深い意味は無いかもしれません。
けれども、良いのです。私が、そう感じ取ったのだから。
綺麗事のように聞こえるかもしれませんが、昔の日本(少なくとも第二次世界大戦敗戦後の高度経済成長に至るまでの間)には普通にあった考え方だと思います。
現在を見るならば、社会、金、権力(敢えて、違う表現として置いておきますが)が絡めば
人は堕落し、傲慢になり、あらゆる下卑た行為に無頓着になります。
それが横行するのが、今の社会だと思っていますし
事実、例えば話題の舛添さんなんかはその典型だと思います。
元は、そこまで裕福な家庭で育ったわけではないものの大学の助教にまでなれるような人物ですし
凄い努力をされて来たのだということは、想像に難くありません。(努力が「偉い」かどうかはここでは論じません。本筋に関係ないので)
けれども、そんな方が「壊れたテープレコーダー」になってしまったのは
ひとえに「金」に呑まれたからだと思います。
だって、すべて舛添さんの個人資産から支出されていたら文句を言う人は誰もいないでしょう?
それが、そもそもおかしいとも思うのです。
本来であれば「いやいや、仕事上の支出ならちゃんと経費にしなきゃダメでしょ!あなたの給料が減ってしまうじゃないか!正当な報酬を受け取るべきだ!」と文句を言うべきなのです。
人間はひどく微妙なバランスの元に生きています。
酸素が少なすぎても酸欠になりますし、酸素が多すぎても酸素中毒になります。
自身の許容量を超えるものは、酸素でも薬でもカロリーでも、そして金でも毒になるのです。
逆に、少なすぎてもダメなのです。酸素も薬もカロリーも、そして金も。
だからこそ人間の「共存する」という構造が、実に微妙なバランスの上に成り立っていることを
私たちは理解しておかなければいけません。
私が、どんな人に対しても「仕方ない」と片付けたくない理由も
そして、他人にとっては「仕方ない」ことであることへの理解も
全ては、母から貰った言葉によって得られているのです。
金を稼いでるから偉いわけではありません。
人を動かせるから偉いわけではありません。
学歴があるから偉いわけではありません。
金を稼げない社会が悪いわけではありません。
人を動かす人間が無能なのが悪いわけではありません。
学歴がないから社会から鼻つまみ者にされているわけではありません。
全ては自分自身の「自由」によって得られてきたものに過ぎないのです。
金を稼ぐならば、きちんと社会へと還元する仕組みを作るべきです。(貯蓄するな、人の為に使えという意味では決してありません。自身の私腹だけを肥やすのは「共存」のバランスを成り立たせていないということです)
人を動かせるならば、適切な状態から最適な状態へと移行できるように人を動かすべきです。(日本が最も弱いところと言われてもいますが、マネジメントをせよということです。義務教育の弊害は社会に出てからが一番大きいと言わざるを得ないと思います。)
学歴というのは結局ラベルです。東大を卒業してても無職になりますし、中卒でも大企業を創立することは出来ます。(もちろん、その学校において本人が得られた経験や知識は何物にも代えがたい財産です。
また、知的レベルが高くなればそういう経験が出来る、得られる可能性が高いのは当然であると思います。
ここで言いたいのは、本を読んで実践しさえすれば、学歴というのはさほど関係ないという点においては「ラベル」に過ぎないということです)
金を稼げない、上司/部下が無能、学歴がない。
これらは諦め過ぎで、自分で行動をしなさすぎた結果でしょう。
本を読んで、実践するだけで、割と何とかなるレベルのことが多いでしょうし
そうでなくても、人によって助けてもらっている部分が少なからずあるはずです。
私の座右の銘は
「反省はする。けれども後悔はしない」
時に失敗と言われるように、人に迷惑を掛けることもあるかもしれません。
私自身は、両親含め多くの人に迷惑を掛けっぱなしの人生です。
これでもか!というぐらいに迷惑を掛けてきました。
けれども、迷惑を掛けたことに対して後悔はありません。
後悔するよりも、あの時に迷惑掛けられたけど結果的に良かったなと思ってもらえるように必死こいて努力した方が建設的だと信じているからです。(もちろん、やってしまったことに対しては、まずは謝罪。してもらったことに対しては感謝を伝えるべきです)
その為に、めちゃめちゃ反省します。
なんでダメだったのか、何がダメだったのか、どうしたら良かったのか、別のやり方は無かったのか、etc...
徹底的に反省して、次同じことをしないようにするのです。
一朝一夕では身に付きませんし、誰しもが出来るとは思っていません。
けれども、多くの人が誰かによって支えられて生きていることは間違いないと思います。
是非、支えてくれている方に「ごめんなさい」「ありがとう」と言葉を発してください。
今しか、届けられないかもしれません。
すぐに行動するべきです。
後悔する時間があるならばやってしまって、反省することです。
それは、もちろん警察の世話になるような類(つまり、法律や倫理に反するような行為)のものであってはいけません。
まあ、警察の世話にならないように理想を実現するというのは、比較的現実的ではないことが多いのも事実なのが悲しいところでもあるわけですが。
なるべくならば、世間、自らの父や母、兄弟や姉妹、親戚や近所の人に対しても同じ様に、胸を張って言えるようなことを今まさに一生懸命やるべきです。
主治医の先生からは、母の余命は聞いていません。
ただただ、出来る限りを、本人に負担がないレベルで行って頂いている状況です。
その中で、母には、今まで言えなかったことや感謝を目一杯に伝えています。
なるべく後悔しないように。
今の一分一秒を無駄にしないために一生懸命、母の看病と介護に努めています。
大学院は休学をしています。
会社に所属していないおかげで、母を付きっ切りで見れるような状況を作り出せたのは
私としてみれば幸運でした。(学校だから休んでいいという話ではなく、身の自由を自らの意志で生み出せるから良かったという話です。会社ならば、役員クラスであれば同じ状況を生み出せるのかもしれません。)
そして、今、また新たな方に支えて頂いて、働き口も見つかり
在宅プログラマとして仕事をこなしてもいます。
やろうと思えば何でもできます。
困っているならば、困っていますと言うべきです。
そして、そのための準備や前提条件を整えるための労力を惜しんではいけません。
捨てる神あれば拾う神あり。
昔の日本の人というのは、本当にうまい言い回しを使うものです。
今じゃ「ゲス不倫」ですからね。
俗社会になったのか、品がなくなったのか。個人的には、日本人全体の品が欠落してきたようにも思えます。
「年上を敬う」というのを「命令を聞く」とか「下手に出てやる」みたいに「自分本位」に捉えている人が多いのではないでしょうか。
年上が時代錯誤的、年功序列的なことを言っているからと言って、感情的に真っ向から反発するのは下品だと思います。(もちろん、最近は年寄りの暴力が問題にもなっているので気持ちはよく分かります。けど、だからこそ理性的に判断し、考えるべきだとも思うのです。)
「年上を敬え」というのも、50代や60代の方が似たような言葉をよく口にされていますが、自分から求めるとか下品だなとも思います。(そういうのは、各ご家庭の中で親が子に教え伝えていくものであって、公共の場でむやみに発せられるべき言葉ではないと思います。)
人がどうこうは一先ずここら辺で止めておきます。
私だって、まだまだ出来損ないですから、見聞を広げていかなければなりません。
最後に、長い雑文にお付き合い頂き、本当にありがとうございます。
文章を書くってのは想像しているよりも遙かに大変で難しい作業だなと改めて実感します。
何かを成し遂げるというのは、それだけ大変ですけども、見合うだけの何にも代えがたい達成感があるものです。
ついでに、そういうのが仕事になる可能性も大いにあり得るところがまた素晴らしいところ。
悪いことばかりではないのが人生。
良いことばかりではないのが人生。
まずは、自身が笑って過ごせるようにすることが大切だと思います。
その為に、人が言ってることに一々腹を立てないことが大事です。
友人を大切に、警察の世話にはなるな。
この言葉を胸に、私は明日も歩んでいきます。